2016年8月28日 真の平和

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、

エペソ2:14


(祈り会説教Ⅰサムエル記23章より)
 
「ダビデは主に伺って言った。『私が言って、このペリシテを打つべきでしょうか』」(2)、「ダビデはもう一度、主に伺った」(4)、「…主よ。どうか、あなたのしもべにお告げください…」(11) ダビデの神への信仰の記述や神がダビデとともにいるという記述は、サムエル記22章までに頻繁に見られました。しかし神との対話を記したのは23章が初めてです。ここにダビデの成長が見られます。これまでのダビデは主のみこころを伺うことはなく、場当たり的な信仰でした。もちろんそれでも主はともにおられ守られます。「主はどのような者を用いられ、どのような者を退けられるのか?」というのがサムエル記の中心テーマです。神はダビデを用いたいので、敵が攻めて来るという問題を生かしてダビデの成長を望まれたのです。これまでのダビデであれば、状況で判断していました。しかし今の彼は神のことばを判断材料にしています。私たちも主のみこころがわかるまで主に伺いましょう。一方神に退けられるサウルは「神は彼を私の手に渡された」(7)、「主の祝福があなたがたにあるように。あなたがたが私のことを思ってくれたからだ」(21)と一見信仰的に見えるのですが、そうではありません。彼は神がともにおられるという事実に基づいているのではなく、自分の気持ちの問題として「神の導きだ、祝福だ」と言っています。自分に都合が良く、心情的に気持ちが良ければ「導きだ!」と言い、自分に都合が悪く、つらくなれば、神はいないし、導きもないのです。私たちも、もう場当たり的な信仰生活をやめて、常に「主よ、私はどうすべきですか?進むべきでしょうか?留まるべきでしょうか?」と主に伺いましょう。