2024年3月31日 説教テーマ「なぜキリストは復活したのか?」

主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に 渡され、私たちが義と認められるために、よ みがえられました。 ローマ4:25 「なぜキリストは復活したのか?」という素朴な疑問に、聖書から答えをいただき、自分の信じているところを確かなものにしましょう。もし人が、すべて正しければ天の御国に行くことができます。そのような人の行動や考え(思想)を正しいとする概念を「義」と言います。もちろん聖書は、神の御前においての正しさで す。それは罪が一つもないことを意味します。アブラハムは罪があるのに「義と認められた」(4:3)とあるのはなぜでしょう。彼には罪がないと見なされたのでしょうか?決してそのようなことはありません。彼はむしろ、約束の子を得ることにおいて、自分も妻も死に行くからだであることを認めています。「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)の教えからすると、正しい者、罪のない者は死ぬ必要がありません。しかし、アブラハムも他のすべての人も例外なく死ぬべき存在です。聖書によれば義である人間はひとりもいないのです(ローマ3:23)エレミヤも、罪ある人間の心はねじ曲がっていて癒しがたいと述べています。心もその表れの行動も正しさを見出すことは出来ないのです。アブラハムが義とみなされたのは、「…神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」(4:3)からです。彼は死者を生かす神と信じました。約束の子を得る手立てはなく、何よりも彼ら自身を死者と認めるほかない時に、神は死者を生かすことのできるお方と信じたのです。また彼は、無いものを有るものとして召された神とも信じました。約束したと言っても25年経過してもまだ生まれないのですから、無いもの同然です。しかし神には何ら問題ありません。必ず実現できるからです。その根拠は、キリストの復活の事実です。復活の力は私たちが望みえない時にも望みを抱いて信じて良いほどです。主が私たちを義とするとは、生ける望み(私たち自身の復活)を持つこと、永遠のいのちを持つこと、また天の御国に入ることと同義です。私たちは死者で良いのです。良いものが何も 無くて良いのです。復活の祝福はそこにこそ注がれたのです。