2024年5月19日 説教テーマ「主イエスの挑戦」

それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。 マルコ3章4節  神の偉大な創造のみわざを覚え、その恵みに与り、罪のうちに安息のなかった私たちに休みを与えてくださる、それが喜ばしい安息日です。ところがその日、律法の指導者たちは、イエスが安息日違反をするかどうかを監視していました。訴えるためです。イエスはそれを承知で、片手の萎えた人を癒すために、皆の見ている真ん中に立たせました。イエスが問題にされたことは、「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか」ということです。癒す働き、教えを守ること、どちらが大切かということではありません。安息日に律法にかなっているのは、安息日の主であるイエスを信じて、その方を見つめることです。愛の実践、律法遵守という行為の前に、イエスその方を見つめることです。律法の指導者たちは批判的な視点は別と して、イエスは見えていません。ついこの間まで律法を守ることに一生懸命であったイエスの弟子たちは、権威ある神の子イエスを真正面から見つめたことで、安息日の真の意味がわかりました。だからこそ、その日に麦の穂を摘んで食べることができたのです。律法の指導者たちはイエスの問いかけに対して、自分の正しさを譲ることができず、沈黙を貫きました。彼らは安息日の真の意味を拒否し、イエスそのものを拒んだのです。彼らに対するイエスの怒りと悲しみは、彼らが神に立ち返ることを願ってのことです。頑なな心は、自らイエスを拒んだことから始まりますが、益々頑なになるよう誘うのはサタンの働きです。罪があるからこそ、神の前に素直でありたいのです。イエスに対する律法の指導者たちの沈黙は、反論することの出来ない沈黙でもあります。拒絶は出来ても、真理に反論できる人はいません。福音に生きる私たちに対して、拒絶することがあっても、反論は出来ないのです。真理(イエス)は人を自由にします。ですから安息日に喜びがあるのです。しかし彼らは憎しみに縛られています。「手を伸ばしなさい」とイエス・キリストその方が明らかになりました。この方を信じ見つめましょう。