2024年7月28日 説教テーマ「聞く耳があるなら聞きなさい」

また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。 マルコの福音書4章24節 マルコの福音書4章21-25節 №22  種まきのたとえに続く二つ目のたとえ話は、「明かり(ランプ)」のたとえです。家の中全体を照らす場合、その明かりを寝台の下には置かず、燭台の上に置くというものです。ちなみにマタイの福音書では、同じたとえ話で伝えたいことは、人々の前に輝かす信者の良い行いとしての「明かり」です(マタイ5:15,16)。マルコの福音書では「隠れているもので、あらわにされないものはなく…」(22)を意味するたとえになっています。すなわち、『明かりが寝台の下に隠されるものではないのと同じように、隠されているもの、秘められたものは、あらわにされるためにあり、明らかにされるためにある』ということです。あらわにされるべき明かりが隠されて、多くの人に見えなくなっているという現実を見つめて語られています。イエスがこの世に来られたとき、そのお姿は誰が見ても神の御子とわかるものではありませんでした。片田舎の家畜小屋で生まれたこと、貧しい大工の息子として育ったこと…イエスが到来された神の国としての明かりは隠されていました。しかしいつまでも隠されたままではいません。明かりを見ようとしない圧倒的多数者に囲まれながらも、必ず誰の目にも明らかになる(再臨)、それを信じて忍耐して歩むことを教えるためのたとえ話なのです。隠されている神の国としての明かりを、信仰の目をもって見るためには、みことばをしっかり聞くことが必要です。その聞くことを、ある秤で何かを量ることにたとえられています。聖書のみことばを聞く時には、どのような秤を持っていれば良いでしょう?それは無限の恵みのみことばを、可能な限り沢山汲み取ることのできる大きな秤です。そのみことばは「神の救いのご計画全体」とも言うことができます。それは永遠の計画なので、とにかく秤は大きければ大きいほど良いのです。秤の小ささは自分の考え、自分の心の思いです。その小さな秤では隠されている神の国の支配、神のご計画を知ることはできません。明かりは隠されたままになってしまいます。大きな秤を持つためには、自分の思いや考えによってみことばをはかるのを悔い改めなければなりません。それは、自分に合うことだけを聞き、そうではないことに耳をふさぐのを悔い改めることです。自分が主となって神のことばを選び、また捨てていることを止め、神のことばによって自分の思いを変えられるように悔い改めることです。