2024年8月11日 説教テーマ「怖がらないで信じなさい」

イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。 マルコの福音書4章39節  たとえ話を終えた後、弟子たちはイエスとともにガリラヤ湖の沖へ、大勢の群衆は陸に残りました。そこには弟子と群衆の区別があります。既にたとえ話のときにも、たとえのみを教えられたのが群衆で、たとえとその説明が弟子たちでした。その違いは聞く耳を持つか持たないかによりました。たとえに対する理解は別として、教えを聞いて従いたいとするのが弟子で、教えを聞くけれども、自分の考えを置いてまで聞こうとしないのが群衆です。自分の願いを叶えてもらうためにイエスのもとに集まる群衆と、イエスに従ってともに歩むために集まる弟子との間には明らかな区別があるのです。イエスの教えが終われば、自分たちの家に帰って行き、これまでと同じ生活の群衆に対して、イエスの教えに従い、ともに沖へ漕ぎ出していくという新しい変化を伴う弟子との間にはやはり区別があります。沖へ漕ぎ出した者たちに待ち受けていたものは、激しい突風による嵐でした。イエスとともに漕ぎ出した信仰者の旅路には、このような苦しみが襲いかかります。群衆は遭遇しません。イエスは私たちを守り、ご自分の持つ平安を与えてくださる方です。しかし信仰をもって生きるからこそ、人生の苦しみが深い危機となることも事実です。弟子たちは舟上で眠るイエスに文句を言いました。ここで明らかなことは、弟子たちは嵐によってうろたえているのではなく、イエスを見失ったことでうろたえているということです。イエスは彼らと一緒に舟に乗り込んでおられるではありませんか。「イエスが私とともにいる」ということをしっかり考える必要があります。単に一緒に乗り込んでいるのではありません。その方は「黙れ、静まれ」と自然に命じて言うことを聞かせる権威と力を持っておられます。それは神の国の支配を実現するためです。悪霊にも叱り(1:25)、熱病にも叱り(ルカ 4:39)というふうに、イエスのことばに権威と力があります。それによって私たちは救われたのです。信仰者は、イエスによって 神の国の支配が実現しているという事実を抜きに、突風(苦難)に遭うことを受け取ってはいけません。最終的に弟子たちは、イエスとはだれなのか?という大きな問いを抱きました。恐らく、彼らのイエス理解は、舟の中で寄り添い、激励してくれるイエスでしょう。元々眠っておられましたから。ところが、風も波もただちに従わせるお方でした。それは神の国の実現と完成に必要な権威と力ですから。私たちも沖へと漕ぎ出し、彼らと同じイエスへの問いを抱きたいのです。