2024年8月4日 説教テーマ「蒔かれた種は成長する」

地はひとりでに実をならせ、初めに苗、 次に穂、次に多くの実が穂にできます。 マルコの福音書4章28節 「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、(26)」やはりたとえ話は神の国について教えています。と言っても「神の国はこういう所です」ということではありません。私たちのただ中に既に来ているもので、その完成に向かって止まることなく前進しているものです。それ自体神のプランなのですが、見えない神の国を、見える現実に逆らって信じることが、聖書の言う信仰なのです。26節からの「成長する種」についてのたとえは、「神の国の支配は隠されて見えないが、確実に前進し成長している」ことを教えています。蒔かれた種は土に埋もれ見えなくなりますが、土の中でひとりでに根を張り、成長していきます。農夫はその成長のための環境は整えます。しかし、水を吸収し、養分を取り入れて成長していくこと自体は、その作物そのものの持っている力です。それをプログラムしているのは神です。人間の理解と力の及ばない所で神が成長させておられるのです。30節からの「からし種」についてのたとえは、「最初は隠されて目立たない神の国が、人間世界に比較するものがないほど巨大なものに成長していく」ことを教えています。他国の奴隷となっているユダヤ人たちにとっては、初めから巨木を望むような劇的な救いを求めています。家畜小屋での出産、無惨な十字架刑の種つぶとしてのイエスなど拒絶状態です。しかしもし、彼らの望むとおりの救いであったら、真実な罪からの救いは得られないでしょう。イエスは、群衆にはたとえ話のみ、弟子たちにはそれに加えて、たとえの意味を説明されました(33,34)。この区別が生じたのは、「聞く力」が違うからです。それは人間的な理解能力ではありません。「聞く耳」のことです(9,23)。それはイエスの教えを聞きたい思いです。なぜ聞きたいのかというと、従いたいから聞きたいのです。イエスの考え、計画、つまり神の国の完成について同意して従いたいから聞くのです。もしそこに自分の願いが基準としてある なら、聞きはしますが、従うに至らないでしょう。それは自分にとっての価値なのか、神とその御国にとっての価値なのか、分かれるところです。