2012年12月16日 土の器の中に輝く宝

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
Ⅱコリント4:7


コリント人への手紙第二 4:7-15

 罪とその弱さのうちにある私たちは、神のあわれみによって救われ、伝道する働きに任じられました。私たちが伝道するときも、その弱さを依然持っています。聖書はそういう私たちを「土の器」と表現しました。臆病で否定的な者(ギデオン・士師記6,7章)、「この世の取るに足りない者」(Ⅰコリント1:28)というように、社会的に弱い立場の者(羊飼い)、肉体の弱さを持つ者(パウロ・Ⅱコリント12:7-10)。これがキリストを伝える器です。その中に伝えるべき内容のキリストという宝が入っているのです。アンバランスですが、これが人間の弱さに対する神の偉大さ!という原則です。宝であるキリストは、土の器を守っています。ですから苦しめられても窮せず、途方にくれても行き詰まらず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びないのです(8,9節)。そんなかん難はお断り、と思われる人は、逆に自分の弱さを否定することになります。

 人としてのキリストも弱く、パウロも全面に弱さを打ち出しましたが。苦労しない伝道はありません。相手はキリストを信じさせなくするサタンです。その働きにあえて私たちを選ばれた神は、壊れそうな器が決して割れることがない不思議な原則をもって栄光をあらわされるのです。このことを信じた者は、信じているゆえに語ることができます(13)。祝福として多くの人々に救いの恵みが及び、感謝が溢れ、その人を通して神の栄光があらわれます(15)。これまでもキリストは示されてきたことでしょう。しかしこの教えどおりにするならば、キリストは「明らか」に示されます(7、10、11)。信仰によって自分の弱さを誇りましょう。そのあなたを通してはっきりとキリストを示しましょう。