『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』
使徒26:14
講解説教No.81
使徒の働き26:1-23
とげのついた棒をけったら痛いわけですが、当時のユダヤによくある農業風景から作られたことわざのようです。牛に野の仕事をさせるときに、とげのあるむちを使いました。牛でも嫌がるでしょう。パウロが嫌がったとげの棒はイエスキリストです。
パウロが青年のころ、彼はステパノというクリスチャンの聖書の議論や法定での弁明を聞きました。クリスチャンの生き方、また死に方に大きな影響を受けたことを示唆して、聖書は殉教したステパノの「着物をサウロという青年の足もとに置いた」(7:58)、「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた」(8:1)と記しています。その日からずっと、けるたびにパウロの良心が痛んだのでした。ユダヤ人たちがステパノを殺害するとき、認めがたい真理を聞きたくないために耳をおおいながら殺害しましたが、サウロの心の耳にはイエスの御声がしっかりと届いていたのです。まだキリストを信じていない方々、ご自分の良心を刺すとげの棒があるでしょうか?そうであれば、キリストはあなたを救うために必ず現れてくださいます。
パウロはとげの棒をけるのをやめました。すなわち、彼は今後いっさい天からの啓示にそむかないということです(26:19)。或いはそれは「預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと(旧約聖書)」(26:22)、「すなわちキリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活…」(26:23)福音だけを信じ、語りました。私たちにも聖書のみ、福音のみという決断と実行が必要です。ほんとうにそれだけを信じて歩んでいるか、よく自分を吟味しましょう。福音は外へと拡がっていく性質を持っています。あなたを通して福音が拡がっていくならば、あなたの福音(聖書)の信じ方がわかります。