エペソ1:5
講解説教No.3
エペソ1章5、6節
イエスキリストが人として歴史の中に来られた目的が聖書に記されています。「人の子が来たのも…多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため…」(マルコ10:45)「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」(ガラテヤ4:4,5)罪人を救い出すことは勿論のこと、キリストの来られた大目的は、私たちを神の子とするためです。これがエペソの手紙には、ご自分の子にしようとする神の切なる願いと定めとして書かれているのです。
神は「みむねとみこころのままに…イエスキリストによって」ご自分の子にしようとされたと幾つも言葉を折り重ねているのは、神ご自身がそれを最上の喜びとし、他ではなく子にするということで全く満足されたいという思いを著者が伝えています。神がそれを定めたというのも、不動の主権をもって誰にも煩わされることなく定めたのではなく、子にしたい!という愛を満足されるまで、丹精込めて練りに練って定められたのです。罪を犯して本質的に神から断絶されている人間が子になるというのは、つまりは養子縁組です。といっても法律的に子とみなすのではなく『アバ、父(親しくパパ!)』(ガラテヤ4:6)と呼ぶことのできる神と私の個人的な関係がそこにはあります。しかも「子ならば、神による相続人です」(ガラテヤ4:7)と御国までも受け継ぐのです。
私たちがキリストを信じて救われ、神の刑罰から免れ、罪ゆるされました。救いとクリスチャン生活ばかり目が行きますが、神の子どもとされた事実を見落としてはいませんか?「事実、いま私たちは神の子どもです。」(Ⅰヨハネ3:1)だから天国へ無条件で行く権利を持っています。神の子どもだから死は終わりではないのです。私たちが神の切なる願いと定めである神の子とする!という真理をしっかりつかむとき、私たちは神をほめたたえているでしょう。そして神をほめたたえることが生きる最大の目的であることに気づくでしょう(エペソ1:6)。神の子たちが神をほめたたえる、それ以上の幸いがないことにも気づくでしょう。