どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
エペソ1:17
講解説教No.7
エペソ1章15-17節
キリスト者に与えられる霊的祝福を語っているうちにパウロの心は神への賛美へと高鳴っていきました(3-14節)。その霊的高鳴りが「どうか、私たちの主イエスキリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と掲示の御霊をあなたがたに与えてくださいますように」(17節)と、神を深く、正しく知って欲しいとの祈りへと変わりました。すでにイエスキリストの神は「みこころの奥義」として私たちに特別に知らせてくださった祝福に預かっています(9節)。
すべてにオープンにされたのがキリストですから、キリストというのは私たちの身の上、身の周りに起こり来るすべての出来事にかかわっておられるのです。それに気づくために知恵と御霊が必要なのです。「空の鳥を見なさい。蒔きもせず、刈り入れもせず…けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです」(マタイ6:26)鳥よりも優れた者ですから、なおさらのこと、私たちへの神の養いは確実です。日々様々な必要を覚えての生活に、この神を見分け、識別していないのだとしたら、大きな損失であり、愚かなことです。仕事や生活で疲れを覚えることが多いでしょう。その時自分の知恵と力で打開するのではなく、神の知恵と力によって、その養いを体験してください。日常の対人関係の中にも深く神がかかわっておられます。
「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」(マタイ7:12)という神の律法は、相手を気遣う日々のマナーにさえ深く関わっています。マナーの良さは、律法にある隣人を愛することに比例します。しかも人のみを愛するのではなく、まず神を愛した者が人を初めて愛することができるのです。日々の生活で神が無関係だった人は悔い改めて、愛と体験として神を知ることができるようにしてください。