2013年12月22日 イエス・キリスト降誕記念 -罪から救う神の愛-

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
マタイ1:21


マタイの福音書1章18-21節

 イエスキリストのご降誕は喜ばしいことなのですが、処女降誕ってどういうこと?とキリスト信仰を信じて行こうとする人に不可解な疑問点を投げかけています。夫となるヨセフも身に覚えのないマリヤの妊娠を聞き、絶望して離縁するつもりでした。この問題を解決するためには、処女降誕を信じようとする努力をやめて、まずイエスキリストが人々を罪から救うために来られたことを信仰によって受け止めることです。もし神が人々を罪から救うために御子をこの世に遣わされたと信じることができれば、処女降誕を受け入れることを問題視する必要がなくなるでしょう。この順番は大切です。キリストは私たちを罪から救う方です。

 罪とは「的をはずす」が原意です。人として正しい要求に応えようとねらいを定めるのですが、的からはずれてしまう状態を罪と言います。素直になればとわかっているのに憎まれ口をたたいてしまい、いけないとわかっていても人から悪く見られたくないから嘘をついてしまい…人にはどういうわけか正しく生きたいという欲求があります。その答えは奥深いものがあり、「神が人に正しい生き方を求めているから」です。その正しい生き方を聖書は一言で要約して「隣人を愛しなさい」と教えます。神が人に要求していることがそれです。人は応えられないだけではなく、愛することが出来ないために、生活で多くの苦悩を作り出しているのです。

 罪のないキリストだけが人を救うことができます。キリストが聖霊によって母マリヤから生まれて来たのはそのためです。罪のない方として生まれ、救い主の資格を持たれたのです。また人の胎を借りてまでしてわざわざ生まれて来られたのは、人々に身をもって愛をわからせるためです。人は愛するという人間の本質を失ったところから救われなければならないという、一番厄介な救いで、せーの!で済みません。愛と時間がかかります。神は真実の愛を知ることも得ることも不可能な人間の底辺まで下がって来られたのです。私たち、神がわからなかったら、救われようがありませんから。神が人になられたこと自体、愛の体現です。この方だけが人を救うことがおできになります。だから聖霊によっておとめマリヤから生まれ、人よりも低いことを示すかいば桶に寝かせられたのです。確実に人を救い、愛を与えることがおできになるから、十字架の死にまでも従われたのです。キリストの救いを信じてください。