2014年9月21日 福音前進の妨げ -谷井涙賀師-

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
ピリピ2:3-4


ピリピ人への手紙2章1-11節


C・H・スポルジョン著「朝ごとに夕ごとに」より 「聖書をしらべよ」

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」ヨハネ5:39

 ここに「しらべる」と訳されたギリシャ語は、人が黄金を捜す時のような、また狩人が熱心に獲物を追跡する時のような、厳格な、綿密な、勤勉な探索を意味する。私たちは、単に1章か2章を走り読みするだけで満足してはならぬ。聖霊の灯火をかかげ、慎重に御言葉の隠れた意味を訪ねなければならない。聖書は調べることが必要である。その大部分は、注意深い研究によってのみ学び得る。聖書には赤ん坊のためのミルクもあるが、強壮な大人のための肉をも含む。御言葉の戸は勤勉の鍵によってのみ開くことが出来る。聖書はしらべることを要求している。それは神によって書かれ、神の印が押され、神によって認可せられた。ゆえに、だれがそれをあえて軽率に扱うことが出来ようか。聖書を軽蔑する者は、それを書かれた神を軽んじるものである。私たちは聖書をなおざりにしたため、審判の日に私たちを責める証拠として聖書が持ち出されることが断じてないように注意しなければならない。神の御言葉なる聖書はしらべがいのあるものである。神は私たちに山のようなもみがらをふるいにかけて、少しばかりの穀物の粒をより出せとは命じられない。私たちはただ穀物の戸を開いて、中の穀物を取り出せばよい。聖書は研究するにつれて深まっていく。聖霊の御おしえのもとで探し求める者の目には、聖書は啓示の輝きをいよいよ増し加え、あらゆる種類の宝石をちりばめた巨大な神殿のごとくなる。最後に、聖書はイエスキリストを啓示している。「その聖書が、わたしについて証言しているのです」これほど、聖書を読む者を励ますことがあろうか。イエスを見出す者は、いのちを、天国を、そしてすべてを見出す。聖書をしらべて、みずからの救い主を発見する者は幸いなり。