2014年11月2日 聖書講演会 -自分って必要?~今ここに自分がいる意味を考える~-

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
イザヤ43:4


イザヤ43章1-7節

『朝ごとに、夕ごとに』CHスポルジョン著より 
 「彼は…そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えてゆき…」(聖書)
 
このような恵みに満ちた言葉は、誰のことを語っているか。彼とは良き羊飼いのことである。なぜ彼は、小羊をそのふところに入れて携えゆかれるのか。それは彼がやさしい心を持たれ、弱い者を見るとただちに心を動かされるからである。彼の群れの小さき者が嘆息をし、無知で弱いことは、彼の同情を呼び起こす。弱き者を顧みることは忠実な大祭司としての彼のつとめである。さらに彼は血をもって彼らを買い取られたのであり、彼らは彼の財産である。彼はご自身が、かくも高い価を支払われた者をかえりたもうのである。次に彼は、一つ一つの小羊に対して責任を負っておられる。すなわち、その一つも失わず、という誓いを立てておられる。さらに、彼らはすべて彼の栄光と報いの一部である。「彼は…携えゆき」という聖句をどのように理解すればよいのだろう。時には、彼は多くの試練に会わせない為に彼らを携えゆかれる。摂理は彼らをやさしく扱う。彼はまた、しばしば彼らが試練に耐え抜き、信仰に堅く立つために、格別に豊かな愛を満たすことによって携えゆかれる。或いは彼らに非常に単純な信仰を与えることによって、彼らを携えゆかれる。それは御約束をそのまま受け取る信仰であり、信じてすべての悩みを持ったまま、イエスのみもとにかけ行く信仰である。その単純な信仰は、彼らに非常に大きな確信を与え、世俗的なものの上に彼らを運ぶ。「彼は小羊をそのふところに入れて携えゆき…」ここに無限の愛あり。もし彼らをこの上なく愛しておられなかったならば、ふところに入れて携えゆかれるだろうか。またここには愛の接近が見られるではないか。そしてここには聖なる親しさがある。キリストと弱い信者との間の尊い愛の交流が。また全き安全がある。彼の中にいる者を、だれが害することができよう。彼らに害を与えようとするならば、まず羊飼いを損なわなければならぬ。そして、全き安息と甘美な慰めとがある。私たちはこのイエスの無限のやさしさを、まだ十分に感じ取っていない。