2014年11月30日 ルカの福音書 -主の恵みの年を告げ知らせる-

イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
ルカ4:21


講解説教No.14
ルカ4章14-30節

 悪魔はイエスを神の子と認めているからこそ、イエスの宣教を阻もうとしました。次にルカが記したものは、イエスの故郷ナザレの人々が、イエスを神の子と信じなかった出来事です。ナザレの会堂でイエスは、「…主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと…わたしを遣わされた」とイザヤ書61章を引用されました。人々がイエス一点に集中したとき、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と、ご自分が救い主であるとの明確な宣言をなさいました。福音は貧しい人々に伝えられます。罪と無力さゆえに、自らを神の前に誇るところが何一つなく、ただ神に助けを求める人のことを「貧しい」と言います。キリストを求めて来る者をお救いくださいます。自らの罪ゆえのことですから、本来救いを受けるに値しない者です。ですから聖書はそれを「主の恵み」と言っているのです。しかし罪の中を歩む人々は「救いを獲得するためには、自らの力と行いでなければならない」という強いメッセージに支配されて生きています。どんなに頑張っても評価されず、失望をくり返し、自分の存在にさえ不安を覚えます。何かを得ても、能力を発揮しても、あらゆる努力を重ねても、救いに至る完全さは得られません。この自らの力と行いの無力さに気づき放棄した人が「貧しい人」として、神の子イエスからの賜物としての救いを頂くことができます。その人はイエスを神の子として救いを求めたからです。イエスのことばを「恵みのことば」と驚き認めたナザレの人たちでしたが、むしろその素晴らしさゆえに「なぜ大工の息子が?」との疑問を拭うことができませんでした。要するに、どうしてもイエスを神の子と信じたくなかったということです。それは恵みを放棄したということであり、愚かな行為であり、その不信仰はさばきの対象です。
答えが決して出て来ない自らの道を進むのか、イエスを神の子として信じ、恵みを受けるのか、道は二つに一つです。兄姉たち、私たちは自らの力と行いによって進もうとしている失われた人たちに対して、一点の曇りのない明確な福音を語ることが求められています。拒むであろうと承知していたナザレの人たちにイエスがはっきりと福音を語ったように、です。