2015年4月26日 ルカの福音書-主のことばを行う者-

わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
ルカ6:47


講解説教No.27
ルカ6章46-49節

 私たちの人生が確かなものとなるか、失われたものとなるかを教える大切な結論部分です。イエスを救い主として信じて救われた人は、イエスを「主」とします。私たちの人生に対して絶対的な権威を持つお方とするということです。なぜ主なのか?それは私たち滅ぶべき存在のために、ご自分のいのちという代価を払って、罪の中から買い取ってくださったからです。このような恵みの立場に置かれながら、「主よ」と呼んでおいて、イエスの言うことを行わないのはどういう矛盾か?とイエスは問題提起をしています(46)。口先だけイエスの権威を認めているに過ぎない人のことです。私たちもこのように礼拝をささげつつも、主の教えを行っていないのなら、口先だけです。この人は土台なしで家を建てた人にたとえられます。イエスのもとに来て罪からの救いをいただき、イエスの教えを聞きはします。しかし、それを行おうとはしません。教えを自分なりの教訓としては受け止めますが、それを自分の人生に役立てようとします。自分が良いとおもう土台を据え、その上に自分の人生という建物を築こうとします。土台の素材はその時々の世の原則です。世は移り行くものですから、土台も移り行くような安定のないものです。イエスのもとに来て、イエスの教えを聞き、それを行う人は、イエスの教えという確たる原則の上に、自分の人生とい建物を築きます。この人は自分が貧しい者であることを認め、自分の罪も弱さも受け入れる人です。時にプライドがそれを許さず葛藤するときもあるでしょう。しかし、主の救いなしには存在し得ないことに気づき、むしろ主への感謝が増します。この人はイエスのおしえを行い、他の人を愛することをします。これは「自分に不可能」ということを知らされることなので落胆するときでもあります。しかしその時こそ、イエスの十字架の愛がその人に溢れるほど分かるときです。世の中の人は、そのような人を愚かと言い、お人よしで損ばかりする人と評価するでしょう。しかし主権者であられるイエスは、この人を賢い人と呼ぶのです。