2015年8月23日 ルカの福音書 -イエスをだれだと言うか-

イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」
ルカ9:20


講解説教No.42
ルカ9章18-22節


 パンの奇蹟の後、イエスは弟子たちに「わたしをだれだと言うか?」との質問を投げかけました。群衆はイエスを、バプテスマのヨハネ(がよみがえった)、またエリヤの再来、或いは昔の預言者のよみがえりと。弟子たちはイエスを、神のキリストと告白しました。イエスはこれまでに、みことばと目に見える行為によって、ご自分が神であられることを示して来られました。弟子たちはその事実を信仰によって受け止めました。イエスを真の意味で知る方法は信仰のみです。人の知識や経験、能力によっては決して知ることは出来ません。事実群衆は、イエスを偉大な者と見なし、最大でも王までで(ヨハネ6:15)、神との認識はありませんでした。私たちがイエスを神と認識できるのは、イエスを単純に信じる信仰によるのです。聖書の読み方は人それぞれですが、原著者である神が各筆者を通して、ご自身神であられることを知らせようと意図しておられます。それを無視した読み方は適切ではありません。さて、イエスの意図したとおりのイエス観を告白した弟子たちに、イエスは「このことをだれにも話さないように」戒めて命じられました。それは弟子たちが「神のキリスト」ということばの意味しているすべてを理解しているわけではなかったからです。その無理解がイエスの受難(22節)の部分です。神であられるお方が人として十字架の苦しみを受けられる、これが聖書の示す神のキリストです(ピリピ2:6,7)。イエスを神と告白したその時から、イエスはご自分の受難を示されました。つまり、神のキリストがどのように、ご自分の職務を果されて行くかを教え始められたのです。これまで地上に生きて来た中で、ただ一人罪のない正しい方によって、苦しみ、死、よみがえりという言葉が語られたことを忘れないようにしましょう。罪のない方、つまり神が私たちの救い主であられ、罪の身代わりとなられるために人となられた方が神のキリストです。物事を正確にとらえるためには、認識していく順序が大切です。イエスを神のキリストと信じることがまず第一。そのことが十分受け止められて、次にキリストがどのように贖いのわざを果されて行かれるかということが問題になります。