2015年12月13日 ルカの福音書 日ごとの糧を与えたまえ

私たちの
日ごとの糧を毎日お与えください。
ルカ11:3


講解説教No.57
ルカ11章1-4節

 神についての二つの祈りを終えて、第三の祈りに入ります。ここからの3つの祈りが私たちの必要のための願いになります。これらは私たちのからだ(肉体)、心、霊の必要を網羅した祈りで、私たちの全生活がこの3つの願いに含まれています。きょうは「日ごとの糧を毎日お与えください」についてです。糧と言っても食べ物だけに限らず、人が生きるに必要なものの願いです。私たちの必要を神に祈るわけですが、祈った結果、神が必要と思われるものを与えてくださるわけです。私たちが必要と思うこととは限りません。まして欲深い罪の性質を持っていますので必要以上のもの、有害なものを求めてしまうことが多々あるわけです。この祈りは不思議です。全宇宙の創造者であり、今もなおそれを保っておられる偉大なお方が、日ごとの必要といった小さなことまで配慮してくださっているのです。私たちへの神の愛は宇宙よりも広く深いのです。日ごとの必要と言っても今は一通りの物が揃っているので、この祈りをする必要性がないのでは?と考える人もいるでしょう。しかしもしこの祈りをしなくなると、神の御名があがめられなくなります。なぜなら、これは単に必要を頂戴するためだけの祈りではないからです。マタイ6:32を見ると、天の父は私たちの必要の全部を知っておられることがわかります。そうすると、私たちが日ごとに求めるまでもないということになります。しかしその上でイエスは「毎日お与えください」と祈りなさいと教えておられるのです。その心は、神は私たちと交わりを求めておられるということです。私たちが神に語りかけるのをいつも待ち望んでおられるのです。願えばいいのではありません。祈る相手を祈り以上に知りたいものです。だから、日ごとの糧を毎日与えられるように祈るのです。また、この祈りをささげるもう一つのことは、自分が神に全面的に依存していることを自覚するということです。私たちは神なしには一日であっても生きられません。「日ごとの糧を毎日お与えください」と少なくとも一日一回は、私たちの時間、健康、存在自体が、神に依存し、その神の御手の中にあることを、祈ることで思い起こすべきです。