2016年1月10日 ルカの福音書 -試みに会わせないでください-

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。
マタイ26:41

講解説教No.59
ルカ11章1-4節

 聖書の語る「試み」は、試練とも誘惑とも取ることのできる言葉です。例えば、お金そのものは罪ではありませんが、その人を悪に陥らせることもあり、逆に健全に管理し、自分にも他人にも徳を立たせることもできます。そういう意味で試練は神の試験(テスト)と言うこともできます。そのテストにパスする人と過ちに陥る人と。聖書を見ると、このテストが人間にとってとても大切であることがわかります。「神はアブラハムを試練に会わせられた」(創世記22:1)、「…試練に会うときには、それをこの上もない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:5)。試みはクリスチャンの成長に欠くことのできないものです。そういうことから、「試みに会わせないでください」との祈りは、『私たちの生活のいろいろな試みが、誘惑の(罪を犯す)機会とならないように力をお与えください』という意味になります。神のテストで罪に陥る可能性のないものはありません。しかしそれでも祝福に預かる準備として、多くのテスト、訓練が必要であることを神はご存知なのです。では、なぜ私たちは罪を犯す機会から守られるように祈るのでしょう?それは、神と私たちとの交わりが破られないためです。偉大な神に対して「父よ。」と呼ぶことが赦されているその人格的な関係が保たれ続けるために願うのです。クリスチャンとしてのきよさを保つためにこの祈りを祈るのではありません。そうではなく、神との正しい関係をいただくために祈るのです。神を知り、神との間に何の妨げのない真の交わりを頂くために。イエスは弟子たちのために次のことを祈られました。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」(ヨハネ17:15)イエスの弟子は世から憎しみを受けます。その世からの憎しみを試みとして受けて精練されて、御国への道を歩み始めるのです。その道中、悪魔の誘惑に屈する人も出るでしょう。しかしキリストは、「クリスチャンをこの世から取り去って楽にしてくださるように」ということではなく、「この世にありながら御国に属する者として、悪い者から守ってください」と祈られたのです。試みを避けるのではなく、祈れと言われたこの祈りをしっかり祈って、成長を遂げましょう。