2016年2月21日 ルカの福音書 -灯火をともして-

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。
ルカ11:35


講解説教No.64
ルカ11章33-36節

 このイエスの教えはルカ8:16から或いは内容からも、弟子たちに理解を求めています。「弟子たちに与えられた光を世に輝かす使命を、「行動せよ」と勧告しています。これはキリストから委ねられている宣教のつとめです。またイエスは体の中の目の役割を比ゆ的に語っておられます(34)。これは燭台の上に置く人々を照らす光と意味内容が違います。私たちに与えられたいのちの光が、私たちの全存在を決定づけるものとして語っているのです。目が健康で視力があるうちは周囲が見えて、自分がどこにいるか、どういう状況にあるのかがわかります。ところが目が病んで視力が衰えたりなくなったりすると、周囲が見えなくなり、自分がどこにいるのかわからなくなります。そのように、私たちのうちに灯されているいのちの光は、私たちの存在の意味を照らし出す灯火なのです。私たちがまずすべきことは、自分のうちの光が暗やみにならないように気をつけることです(調べること)。私たちの目が健全か、それとも悪く濁っているかを調べるのです。これは聖書のみことばの聞き方と深く関わって来ます。「健全」は単純、簡素という意味があります。つまりみことばを待ち望み、他は何も求めない、みことばだけに聞き、養われ、生かされる歩みに徹するようにということです。「悪い」は悪意に満ちた、病んでいるという意味です。単純、簡素の反対の言葉としていうと、余計なものが間にいっぱい入っている状態のことです。いのちの光を輝かすため、まずしなければならないことは、自分の内から悪や罪を取り除くことではありません。それ以上にすべきことはみことばに触れ続けることです。それによって初めて罪を取り除くことが可能になります。みことばの訓練の目的は、いのちの光を輝かすためです。「入って来る人々に、その光が見えるため」とイエスは人々が光を受け取るために、入って来てほしいと切望されています。この主にきょうも仕えましょう。まずはみことばにある生活を具体的にしていきましょう。