2016年3月27日 復活記念礼拝 -墓の中を確かめよ-

青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
マルコ16:6


マルコ16章1-8節

「イエスに油を塗りに行こうと…」(1)「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が…」(3)「誰かが私の主を取って行きました」(ヨハネ20:13)女たちの最大の関心は、イエスのご遺体を埋葬することです。そんな女たちの問題点を御使いは指摘しました。「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」(ルカ24:4)女たちが捜していたのは死人であって、その傍らで悲しみを癒そうとしているのです。ここに人間の限界を見ます。人間は肉体をもって生きています。それ故に様々な苦しみを経験します。肉体は次第に衰えて行きます。その行き着く先は死です。人間はその範囲を決して超えることができません。死という限界の範囲で物事もはかります。死の支配の中で望みにならない望みを探し、すぐに渇くことがわかっていても生活の中に癒しを求め続けます。肉体をもって生きるとはそういうことです。「死のとげは罪である」(Ⅰコリント15:56)と聖書は言います。人を致命的な死に至らせるものが罪であるということです。また死のとげは、死の恐怖をも意味します。医学が進み肉体の痛みを緩和させることは十分あっても、死の恐怖は取り除くことは決して出来ません。もしその人の罪が赦されているなら安心して死と向き合うことができるでしょう。ですからクリスチャンは死を直視することができます。イエスがよみがえられて遺体のあった墓が空っぽだったということは、イエスが肉体を持ってよみがえったことを意味します。そしてそのイエスのからだのよみがえりは、十字架上で一切の罪を処罰し、私たちをどこまでも支配していた死までも滅ぼされたということです。ここに根本的な救いがあります。イエスを信じる私たちもイエスと同じように復活体をいただくのです。