2016年9月11日 ルカの福音書 -しなければならないこと-

あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。
ルカ17:10


講解説教No.87
ルカ17章1-10節

 10節までにイエスの4つの教えが出て来ます。これは弟子たち限定の教えです。それは教えの内容から、また5節で「使徒」という言葉を先取りして使っていることからも(イエスの復活の証人として派遣される者のこと)、弟子たちに集中した教えであるとわかります。ここから、イエスに従う信仰者として生きるとはどういうことかを学びます。根本的な教えが7節以下の4つ目の教えにあります。なすべきこと(しなければならないこと)をしただけです、という僕として生きるということです。奴隷はその労働に対して主人に感謝されることを期待すべきではないし、主人は奴隷の労働に給料を払う必要もないというのが両者の当然の関係です。イエスは弟子たちにあたながたもそのとおりであって、「しなければならないことをしただけです」と言いなさいと教えます。僕がしなければならないことの第一は、兄弟をつまずかせないことです(1つ目の教え)。「小さい者たち」つまり信仰の弱い人たちの信仰の歩みを邪魔をして神に仕えることを出来なくしてしまうことがつまずかせることです。つまずかせないこと、それが僕として主に仕えいて行くにあたり第一に考えなければいけないことです。謙虚に聞くより意見を貫きたい、ほめるより欠点を指摘したいという感覚は僕にはなく、雇い人の感覚です。僕であることを忘れることが人をつまずかせる原因となります。僕がしなければならない第二は、戒めて赦すことです。厄介な罪の部分をスルーしてなるべくごたつかないように交わりを築くことは僕の生き方に相応しくありません。ですから罪をそのままにしてはいけないということで戒めます。戒めの目的は赦しです。罪を戒めて赦すことによって良い交わりを回復することが可能です。戒めと赦しがセットであることが重要です。戒めて赦す!これはいわゆる上に立っていては出来ません。僕だからこそ出来ることです。最後に、僕に信仰を増す必要はありません。信仰は量でも質でもありません。信仰は生きているかどうかが問題です。生きている信仰は「根こそぎ海の中に植われと言えば、言いつけどおりになる」信仰です。これは明らかに神の力です。要するに生きた信仰とは神の力を引き出させる信仰です。教会に下手な人間的作用をなくし、僕たちを通して神の力が溢れる場所としましょう。