人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたからである。
ルカ19:11
講解説教No.99
ルカ19章11-27節
イエスがエルサレムに向かっていく姿を多くの人が見て、この人こそローマ支配下にあるイスラエルを復興してくださる救い主ではないかと大きな期待を寄せています。そのように神の国がすぐにでも現れると思っていた人たちに、イエスは一つのたとえを話されました。王位を受ける身分の高い人とはイエスのことです。「遠い国」とはローマのことで、独立を認められた国があったとしても、支配国のローマ皇帝に認めてもらわないと王になることはできません。そこで王位を取るためにローマに旅立つのです。イエスの場合の遠い国とは、父なる神のみもとである神の国です。イエスはエルサレムにおける十字架の死と復活を経て天に昇り、父のみもとに帰られるのです。そのイエスが戻って来るとは再臨を意味しています。さて、その再臨による世の終わりまでにはかなりの時間がかかります。王としてのイエスの支配、神の国は人々が期待しているようにはすぐに現れません。そのイエスの不在時が続く間、どうするのか?私たちは今まさに、イエスが十字架と復活と昇天によって父のもとに帰られてから、再臨までの間、イエスの不在の時を生きています(助け主は与えられている)。そこでイエスは十人にそれぞれ1ミナの金を渡し、商売をしなさいと命じました。これはタラントに見る賜物とは違います。信仰者一人一人に与えられている「信仰」のことです。流れから言うと、「イエスを待つ信仰」それが1ミナです。1ミナの信仰の価値を認めて神の約束を信じて生きるなら、豊かな実りが与えられます。与えられた信仰の価値に疑いを抱き、神の国の約束を中途半端に信じるなら実りは半分となるでしょう。1ミナを風呂敷に包んで隠しておいた人に見るのは、信仰の価値を全く信じなかったということです。王として来るとの約束も信ぜず、いや望んでいなかったのです。これは神も遣わされたイエスも無視する行為であり、神の怒りを招きます。あの盲人も、ザアカイも自分に与えられた1ミナを大切なものとして生かした人たちです。さてあなたは1ミナをどう生かしますか?