イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』
と書いてあるのは、何のことでしょう。
ルカ20:17
講解説教No.103
ルカ20章9—18節
主人が農夫たちにぶどう園を貸して収穫の取り分を受け取るためにしもべたちを遣わしたところ、農夫たちはしもべたちを袋叩きにし、何も持たせず追い出してしまいました。そこで主人は「息子を遣わせば敬ってくれるだろう」と送り出しましたが、逆に殺されてしまいました。こうなると主人は農夫どもを滅ぼし、ぶどう園をほかの人に与えます。このたとえを民衆に話したところ、「そんなことがあってはなりません」とその理不尽さを嘆きました。イエスはこのたとえを、引用された聖書のことば(詩篇118:22)の意味を問うために話されました(上記)。民衆の言う通り、あってはならないと判断したことが、まさに起こると聖書が既に予告していると、イエスは言われたのです。建物の礎石として決定的に重要な役割を果たす石を、建築家が捨ててしまうということが起こるということを。建築家が見立て違いをしたように、しもべたちを侮辱し、主人の息子を殺した農夫たちは決定的な見立て違いをしました。農夫とはユダヤの指導者たちのことです。神を礼拝し、信仰に生きることを教える人たちが主人である父なる神の遣わした息子すなわち御子イエスキリストを受け入れません。むしろイエスをねたみ、憎み、殺そうとします。罪ある人間は自ら神を知ることはできません。しかし、神が人となられて私たちのところに来てくださったことにより、神を知り、また信じることができるようになったのです。このイエスキリストこそ、まことの神、永遠のいのちです(Ⅰヨハネ5:20)。引用された聖書の意味は、この方こそ神、礎の石であることと、捨てられた救い主であることも教えています。十字架刑に処したユダヤの指導者たちの言い分は「人を神とした神への冒涜罪」です。ところが捨てられて十字架で死なれた方が、それによって罪の贖いを成し遂げました。イエスは死者の中からよみがえられたことで、ご自身神であることと、人間の罪の贖いのわざが完全であることを証明されました。この意味は是か非か、あなたに問われています。