2017年4月30日 ルカの福音書 -仕える人のようでありなさい-

食卓に着く人と給仕をする者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。
ルカ22:27


講解説教No.113
ルカ22章24~30節

「(イエスを裏切る者は)いったいこの中のだれなのか」(23)との互いの議論から、「だれが一番偉いだろうか?」という議論に転じていったのがイエスの弟子たちです。しかもそれが初めてではなく、以前から繰り返しているようです(9:46)。相手を批判することは、自分を正しいとすることであり、偉いとすることです。そして互いがそう思っているのです。同じクリスチャンの仲間を批判的に悪く見てしまう、ということが私たちの中にもあるのではないでしょうか。イエスはここで、この世の権力者のあり方と教会の指導者である使徒のあり方の違いを「食卓に着く人と給仕する者」のたとえで教えています。そこで大事なのはイエス自身が今弟子たちの中で「給仕する者のようにしている」ということです。最後の過越しの場所を用意し、食事を整え、給仕して仕えたのはイエスです。その席上ですべての弟子の足を洗われたのもイエスです(ヨハネ13:4~)。イエスが彼らに伝えたいことは、人に仕えることの模範ではありません。確かに彼らが近い将来教会のリーダーになるときに仕えることは大切なことです。本質的に伝えたいことは十字架の本当の意味です。前回と同じメッセージです。イエスが十字架にかかって死なれたのは、私たちに仕えられたということです(マルコ10:45)。仕えるという十字架の意味を教える絶好の機会となったのは、彼らが互いに偉いと言い争ったときでした。特別なことが起こって言い争いが起こるわけではありません。いつでも起こる要素を常に持っているということです。教会においてもです。自分は正しい(偉い)、相手は間違っていると強く主張したければしたいほど、その私に給仕してくださる方がいる、汚れた足を洗ってくださる方がいるということを鮮烈に思い起こすべきです。そのような罪深さを持つ人こそ、主イエスの十字架の真意を教えられるべきなのです。教会で言い争いが起こったとき、イエスはがっかりしたり、怒ったりしません。十字架を教えるチャンス!と慈しむ思いで、ひとりひとりとかかわってくださいます。ですから、私たちもただの言い争いに終わらすのではなく、今以上にイエスの十字架を知ろうではありませんか。