2017年6月18日 聖書講演会 -平安を求めて-

そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
使徒16:30,31


使徒16章25~31節

「…わたしは、あなたがたに平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います…。」(ヨハネ14:27)
アウグスティヌスという人はこう言いました。「革命家であれ戦争屋であれ、人はだれも平安を欲する。人は常に、自分たちが思い描く、より安心な生活を保障する状況を作り出すために戦うのである」(アウグスティヌス著作集13より)人の安心(平安)を保障するお金、所有物、居場所、人(愛)が失われると不安に陥ります。ですから人はそれらを失わないために日々奮闘するのです。この点に関して二つのことを確認しておく必要があります。①この安心は永続的か一時的か?②この安心はその人を生かすものか?「愚かな者の安心は自分を滅ぼす」(箴言1:32)とあるように、自分の利益だけを満たそうとする利己的な人の得る安心は一時的であり、かえって自分を失わせるものです。安心は事実でしょうが厳密に言えば偽りの安心です。
聖書が提供する安心は、キリストの平安です。これは利己的な安心とは正反対の惜しみなく与える平安です。これは自分の利益を求める必要のないものなので心配したり、イライラしません。むしろ他の人の利益を心がけるので安定した平安を保てます。これを愛と言います。イエスキリストは自分をののしる者さえも愛する完全な愛を実践されました。ですから苦難を受けても平安を抱いていられるのです。それと同じ平安を私たちに与えると言っているのです。いただいた人はその平安を自らのために使いません。他の人の利益のために使います。キリストを信じてこの平安を頂いてください。頂いた人は、他の人がさらに平安を頂いて幸せになるために使ってください。