ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。
ルカ23:23
講解説教No.121
ルカ23章13~25節
無罪判決が覆されました。ローマ政府は過越しの祭りの時にユダヤ人の囚人をひとり釈放する習わしがありました(17)。ユダヤ人たちはバラバという暴動と人殺しの囚人を釈放するように要求しました。その代りにイエスを処刑するためです。この要求の声に民衆が含まれていることに着目してください。民衆は少し前までイエスの話を熱心に聞いていた人たちでした(19:48)。イエスを十字架につけることなど望んでいなかった彼らが手のひらを返したのは、指導者たちに扇動されたからです(マルコ15:11)。なおもピラトはイエスの無罪を主張します。しかし「(イエスを)十字架につけろ」との主張をやめなかったユダヤ人たちの声がついに勝ってしまったのです。ピラトは不本意にも無罪を正式に宣告したのです。イエスを十字架につけたのはユダヤ人たちです。この事実を今の私たちがどう受け止めたらよいのか、民衆の心理を踏まえて考えたいのです。彼らは自分の信じている確かなものがありませんでした。ですからどちらにもついていないのです。どっちつかずということはどちらが得かというふうに都合のいい位置にいるということです。時に熱心に聖書の話を聞き、時に都合により聖書の話に耳を閉じるのです。私たちにも民衆と同じ罪深さを持っています。この聖書の出来事が今の読者である私たちに問いかけていることは、あなた自身がイエスを十字架につけたということです。ペテロは後のユダヤ人たち、すなわち十字架刑に直接かかわっていないユダヤ人たちに対して「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(使徒2:36)。と言いました。それは今の私たちにも突き付けられているメッセージです。それに心を刺されるならイエスを信じるべきです。また民衆心理に見るような都合の良い信仰のしかたをしている人は、その不信仰を悔い改めるべきです。イエスはその人たちのためにこそいのちを捨てられたのです。また扇動されるようなことのないためにいつも聖書に聞くようにしまさよう。