2017年7月9日 ルカの福音書 -十字架の後ろに-

彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。
ルカ23:26


講解説教No.122
ルカ23章26~31節

 夜通しの裁判、むち打ちと嫌がらせとイエスの体力が残っていない状況以下です。そのような中十字架を背負わされ処刑場へ引かれて行きます。歩けなくなったイエスの十字架を居合わせたシモンがむりやりに負わされました。そしてイエスの後ろについて運びました。さらにはイエスの十字架刑を求めた民衆が最後を見届けようと、或いは嘆き悲しむ女たちが「イエスのあとについて行」(27)きます。「ついて行く」は「従って行く」とも訳せるのですが、著者ルカはこの人々がイエスの弟子とも限らないのに、みな十字架のイエスの後ろについて行ったことを意識して記しています。この姿にイエスに従って行く弟子の歩みには何が求められるのか、あえて問うているのです。「自分の十字架を負い…(わたしに)ついて来なさい」(9:23、14:27)が弟子に対するイエスの教えです。信じて従って行くのが信仰ですが、「よし、これから十字架を負ってついて行こう」と決意して信仰を持った人はいません。様々なきっかけで教会に集うようになり、キリストの救いを信じ喜ぶようになりました。そしてその救いは同時に自分の十字架を負って従っていくものだというのを成長しながら学んでいくのです。元々十字架刑は、ローマ帝国に歯向かったらどういう悲惨な結果を招くか、同時に、かつてローマに背いた者が今はローマに刑として服しているということを人々に見せつけるものでした。つまり十字架を負うとはローマへの従順をあらわしています。イエスも「実に十字架の死に至るまで(父なる神に)従われました」(ピリピ2:8)私たちも神のみこころに従順になることが求められています。だれでも自分の思いや願いを優先させたいわけです。シモンとしても彼の計画、予定というものがあったに違いないのです。そう思う時に、神のみこころに従順になること、、それが自分の十字架を負うことです。私たちは「救われた喜びだけで十分。自分の十字架を負ってまで…」とは思いません。イエスが求めている弟子は救いの喜びの結果、喜びとともに十字架を担っていく弟子です。それがイエスの後ろについて行くということです。自分の十字架を負うことを拒む人は、イエスについて行くことも拒んでいることになるのです。