2017年9月17日 ルカの福音書 -鈍い心がうちに燃えるとき~イエスと出会う~-

それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
ルカ24:31


講解説教No.129
ルカ24章27~35節

 さえぎられていた目が開かれたのはエマオに到着して家でイエスと一緒にいた時でした。食事の交わりをしたから目が開かれたのではなく、イエスの語ることばだけに耳を傾けることが出来たからです。イエスに対する自分の考えが強くあった弟子たちでしたが、数時間イエスと一緒に歩いている中で自分の考えを止めていったのでしょう。自分の考えに固執することは自分で自分を守る努力が必要となります。平安はありません。しかし聖書のみことばだけに徹することは、神に身を任せることになるので安らかです。二人の弟子はイエスといたいという思いが強くなりイエスを引き留めました。もしイエスとともにいることにこだわらない自分がいたら、それは自分の考えに固執しているからでしょう。聖書が語るままを聞くことができたら幸いです。復活のイエスが共におられることを確信した人の生活は、これまでと全く違う意味を持つようになります。それまではエルサレムから離れたい(失意と落胆)と思っていた弟子たちが、すぐさまエルサレムに戻りました。方向転換です。イエスと出会った者にとって避けて来た現実、望まなかったその場所が違う意味合いを持つようになります。失望落胆を覚えていた現実が神の救いのわざを行ってくださる場所となるのです。これまで見ていた場所が明るく見えませんか?そこにイエスが共にいてくださる中で遣わされるのです。二人の弟子のこれまでの喜び、期待はイエスが彼らの国を救ってくださることでした。しかし今は違います。救ってくださる方を喜んでいます。「祈りに応えてくださった事」と「祈りに応えてくださった方」とどちらを喜ぶかということです。イエスとの出会いそのものを喜ぶ人は、何かを学ばずとも、お会いしたままのことを証ししていくでしょう。