彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。
ルカ24:35、36
講解説教No.130
ルカ24章36~43節
「驚き恐れて、霊を見ているのだと思った」(36)とは復活のイエスにお会いした弟子たちの反応です。すでに復活のイエスに会っている二人の弟子とシモンがいるにもかかわらずこの状況ということは、復活を信じることは難しいと言わざるを得ません。ただ彼らの「霊を見ている」とは、いわゆる幽霊を見ているわけではなく、肉体の伴わない霊的存在としてのイエスを見たとの反応です。これは間違っているのでイエスは訂正して教えます。ご自分の「手や足」を示し、さらに焼いた魚を召し上がってまで示されたのは肉体であり、「肉体をもって復活した」ことを教えられたのです。この復活は罪に完全に勝利したことの証明です。人は死ぬと肉体が朽ちます。それは生命の機能が停止するからではなく罪があるから朽ちるのです。その人間を救うとき、罪の結果である死の支配に肉体のまま勝利しなければなりませんでした。イエスの復活体は空間(ヨハネ20:19)にも、時間(ルカ24:31)にも支配されない栄光のからだです。この方にこそ私たちを罪と死の支配から救う力があるのです。またそれは私たちの復活をも保証するものです(ローマ8:11)。このお方が弟子たちに「平安があるように」と言われました。単なる挨拶ではなく、イエスの平安をお与えになりたいためです。この平安はイエスが肉体をもって復活されたことを信じることによって与えられるものです。人の作り出す平安はすぐ不安になります。その原因は罪です。しかしイエスの平安はたとえ死が迫っても平安です。それは栄光のからだへの復活に基づくものだからです。精神論などと捉えないでください。よみがえられたイエスに肉体があったように、私たちにも現実として「(イエスの)栄光のからだと同じ姿に」変えられるのです。間違いなく平安です。