2018年4月1日 復活記念礼拝 -平安があるように-

その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
ヨハネ20:19


ヨハネ20章19~23節

 「その日」すなわち日曜日によみがえられたイエスは、弟子たちに何度もご自分の姿を現されました。身を潜めて集まっていた弟子たちは周囲を恐れて戸締りをしています。それにもかかわらずイエスは気づかれずに、瞬間的に彼らの中に現れました。時間、空間を超越されるイエスは、手やわき腹に傷跡を残す肉体をも持つ、人の理解を超えた完全なお方です。このような復活を信じがたい人は、復活の目的が何かを知るべきです。イエスは「私たちが義と認められるためによみがえられた」(ローマ4:25)のです。私たちを根本的に救うために死なれ、よみがえられたのです。肉体を持ったままの完全な復活は、死とさばきの最大の原因である罪に勝利した故の結果なのです。集まっていた弟子たちにかけたイエスの最初のおことばは「平安があるように」です。イエスを裏切り、見捨てて逃げて行った弟子たちに簡単にかけられる言葉ではありません。しかし十字架の贖いがそれを可能にしました。そんな弟子たちをイエスはご自分の働きに代わる者として「遣わします」と宣言されました。これは主のあわれみによります(Ⅱコリント4:1)。ですから、私たちは遣わした方の意向に従わなければなりません。意向の第一は、イエスのくださる励ましによって元気を頂くことです。弟子たちに対して「平安」が繰り返されているのがそれです。第二の意向は、聖霊を受けることです。父から遣わされたイエスご自身、「御霊の力を帯びて」宣教を開始されたのです(ルカ4:14)。自らの力ではなく聖霊の力によって宣教する模範を示されました。この主のご意向に沿うならば、「私には伝道は出来ない」ということは検討違いであるとわかります。これは私たちにとって大きな励ましではないでしょうか。復活の主イエスキリストを宣べ伝えることは特別です。ですから特別な方法で宣べ伝えるのです。