2018年6月3日 ペテロの手紙第一 ーしぼむことのない栄光の冠ー

そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。             
Ⅰペテロ5:4


講解説教No.26
Ⅰペテロ5章4~5節

 群れを牧する霊的リーダーの責任は大きなものがあります。パウロも群れ全体を導く者として「日々私に押しかかるすべての教会への心づかい」を苦難の一つに数えています(Ⅱコリント11:28,29)。しかし彼らには特別な報酬があります。「栄光の冠」です。義の栄冠を長老に限らず、キリストに従う者には、どんなに苦しくても、それをはるかに上回る報いがあることがここで教えられています。パウロは「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」(Ⅱテモテ4:8)と断言しました。私たちも自分が受ける報いにもっと関心を持つべきです。「若い人たち」に対しては、長老たちに従いなさいと命じます。若い人たちとは学びの途上にある人たちです。経験がまだ伴わない知識だけの、高ぶる危険性があります。それに対して長老たちは、経験が伴うだけではなく、みことばを自ら行っている人たちです。ヤコブは「みな互いに」謙遜を身につけなさいと言いました。「みな互いに」の中にヤコブ自身と長老たちも含めています。みな互いに謙遜を身に着けるとは、教会を形成するときに、教会に属する人が皆学び得ることが謙遜です。若い人たちは、その激しい試練の中で信仰を守り通すことで必死です。その人たちが群れ全体を見渡す必要はありません。だからこそそういう役割の人を神は教会に置いてくださるのです。霊的リーダーは誘惑に陥る高ぶる人をへりくだるように導くのです。その働きは大変です。だからこそ、彼らにしぼむことのない栄光の冠が用意されているのです。若い人もへりくだるなら、十分すぎる恵みが与えられます。これらの報いを知らないで試練の生活を送ることは困難です。何のために信仰生活をしているのかわからなくなるでしょう。であるから、私たち従う者には必ず報いがあることを信じ、期待しようではありませんか。