「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」
ガラテヤ5:16
ガラテヤ人への手紙5章16節
義とは神と人とのあるべき関係を意味する言葉です。神とのうるわしく親しいかかわりを経験した人は、さらにそれを味わいたいと飢え渇くのです。ここでは神とのかかわりをすでに持った人の幸いが語られています。イエスは五千人の給食の奇蹟を通して「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています…」(ヨハネ6:54)と語られました。ここでの「食べる、飲む」はイエスを信じることを意味していますが、このことばで多くの弟子たちがつまずき、イエスから離れて行きました。義に飢え渇いていなかった人たちと言えるでしょう。しかし神と神の祝福に満たされたいと願う人たちは神を求め続けます。飢えと渇きは繰り返し立ち戻って来る欲求だからです。この飢え、渇きという言葉は極めて強い欲求を表します。旧約聖書のへブル語に同じ言葉を見るとわかります。「やがてエジプト全土が飢えると…食物を求めて叫んだ」(創41:55)「民はその所で水に渇いた。そこで民はモーセにつぶやいて」(出エ17:3)これらの飢え渇きは争いをもたらすほど生存危機をもたらすものなのです。それゆえ人々は飢え渇きを与えてくれるものを往々にして神にしてしまう傾向が強いのです。イエスが断食をして空腹のとき、サタンの誘惑を受けました。それに対してイエスは「人はパンだけではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と語りサタンを退けました。天の御国において重要なことは食べること、飲むことではありません。神のことばです。義の飢え渇きを満たすものは神のことばです。日々のデボーション(み言葉と祈りの時)充実するのは、神とのかかわりをもっと味わいたいと願うところから始まります。