2018年10月21日 秋の聖書講演会 第二回 -自分の本当の価値-

れゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。
イザヤ30:18


イザヤ書30:15-19

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)これは神が私たちに向かって語られている言葉です。なぜ私たちが高価で、愛されるに価するのか?それは神が「あなたを造り出した」創造者であるからです(イザヤ43:1)。神は私たちを愛をもって交わるために創造してくださいました(創世記1:27)。その神の目には間違いなく価値ある者です。ところが、私たちはこの方に罪を犯しました。創造者を神とせず、神でないものを神として拝みました(偶像礼拝)。目があっても神を見ようとせず、耳があっても神に聞こうとしませんでした。神の人格を拒否したのです。神は燃える怒りをこれに注ぎました。しかし愛することを止めたのではありません。ただ犯した罪をゆるし、受け入れるわけには行きません。罪は必ずさばかれなければなりません。神は私たちが犯したすべての罪をご自分の御子に負わせました。私たちをさばかず、代わりに罪のない御子キリストを罪として十字架でさばかれました。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」(イザヤ43:1)と書かれているとおりです。私たちを次のようにもたとえています。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」(イザヤ42:3)実際に私たちは今にも消えそうなともし火のように弱さを担った存在です。そんな者も神にとってはどこまでも尊いのです。もしあなたが創造の神、贖いの神、愛の神を信じないなら、あなたは自分自身を偶然の産物としか見なすことが出来ず、自らの価値を簡単に失うでしょう。しかしもし信じるなら、あなたは神に愛されるために生まれて来た必然の存在であることに気づかされます。そこにこそ真の生きがいがあります。神に喜ばれること、すなわち「受けるよりも与える」生き方を望むようになります。