御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
ルカ1:35
ルカの福音書1章26-35節
マリヤに救い主が生まれるという、いわゆる受胎告知の記事から、マリヤに何が臨んだのかを考えます。聖霊が…「臨み」という言葉は「上から」「やって来る」の二つの言葉が合わさって出来た言葉です。つまり「向こうから人の上にやって来て、そこにとどまって作用する」という具合です。マリヤが何をしたのでも、受ける資格があったのでもありません。神の主権によって神の側からやって来たのです。私たちが神の力を受けるのも同じです。聖霊が私たちに臨むことで力を受けるのです(使徒1:8)。マリヤに聖霊が臨み、いと高き父なる神の力が覆いました。その結果生まれて来る子は「聖なる者、神の子と呼ばれます」「聖」は区別されることを意味します。救い主と私たちとは異なる存在であるということです。際立つ違いは、私たちはただの人ですが、イエスは神性と人性が完全に一つになって存在するということです。人を救うのは完全な神でなければなりません。また、神の救いはスーパーヒーロー的な敵を倒すような救いではありません(そういう力はありますが)。人の罪を贖う犠牲によって成り立つ救いです。人のいのちを罪から救い出すためには、罪のないいのちを犠牲して差し出すのです。それゆえ罪のない完全な神、またいのちの犠牲としての完全な人であられる唯一の救い主が人を救うことが出来るのです。ここまでして人を救う動機は「万軍の主の熱心」と聖書に記されています(イザヤ9:7)。放っておけば確実に滅ぶ私たちに対して無関心でいられないのが神です。聖霊の働きによって救い主が誕生したように、イエスは常に聖霊の助けを頂きながら生きられました。それは神であられるお方が完全な人となって、自分自身からは何事もなさらなかったということです。罪に汚れた力のない存在である私たちは、なおさら聖霊の助けなしに生き抜くことは出来ません。