2019年2月17日 宣教大会 -出て行って福音を宣べ伝えよ-

遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
  ローマ10:15


ローマ10章13-17節

 パウロはここで救いに至る宣教の論理を語っています。救われるために、①信じることが不可欠です。信じるためには、②福音を聞くことが不可欠です。福音を聞くためには、③だれかが福音を宣べ伝えることが不可欠です。福音を宣べ伝えるためには、④宣べ伝える人を派遣することが不可欠です。結論としてパウロは、だれでも救われるためには神の真理を知らなければならないこと、その真理は「キリストについてのみことば」であること、それを聞き、信じるためには語る人がいなければならないことを述べています(17節)。さて、イエスの宣教大命令から(マルコ16:15)、救われた人は誰もが語る人です。救われて間もなくても、聖書や神学的なことを知らなくても、イエスがその人にしてくださった救いのわざをお知らせすればいいのです(マルコ5:19、20)。救われたことで変えられた振舞い、生活態度は良い証しとなり、人々に影響を与えるでしょう。しかし聖書は「(信じる)信仰は聞くことから始まる」と言っているので、やはりどうしても語らなければなりません。救われた人はだれでも語る人ですが、賜物として特別に語る(伝道者、牧師)者も神はお選びになります。「良いことの知らせを伝える人の足は、なんと立派」なのは、伝える人よりも伝えるメッセージが立派なのです。そのメッセージ源は神であり、遣わすのも神です。語る者が心を使わなければならないことは、忠実に語ることです。「キリストについてのみことば」を忠実に語ります。すなわち、「イエスキリストはだれなのか?」ということと、「イエスキリストは何をしたのか?」ということを忠実に語るのです。それはイエスキリストの十字架の死と葬り、そして復活をそのまま語るのです。イエスキリストが神であられることを語るのです。