パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。
使徒16:10
使徒16章6-10節
神の導きを確信しながら宣教を進めるにはどうしたらいいかを、パウロの経験を通して学びます。16章に記されているパウロの伝道の旅は、初めてヨーロッパに福音が宣べ伝えられる大きな進展の部分です。宣教の大きな進展の時というのは困難が伴います。それは宣教の主導が神であることを念押しするかのようです。パウロは計画を立てて進めた伝道の旅が、聖霊によって禁じられるという思いがけない困難に遭遇しました。彼は主の働きを犠牲を払って行っているので何とか進もうと試みるのですが、何度も阻止されてしまいます。そのためガラテヤ地方に追いやられた時に彼は大きな病になったようです(ガラテヤ4:13,14)。コリントへ宛てた手紙にはその病のことを「高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられ」た(Ⅱコリント12:7)と言っています。神が阻止しているのはパウロの行く道ではなく、高ぶりを阻止しているのです。「この道でも、あの道でもなかった」とパウロの足取りは着実に神の導きに近づいています。このような消去法も神の導きを知る手立てと言えるでしょう。自分の限界が大きくなったタイミングで神はパウロにご自分の心を知らせます。「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」
彼は一切の迷いと疑問なしにただちにマケドニヤへ向かいます。これまでの歩みにおいて、自分が計画したことが上手く行かず、病を負い、変更に変更を重ねなければならなかったことの意味を悟りました。ここで語られている「確信する」という言葉は、これまでの様々な材料を組み合わせ、検討し、論証しながら、最終的な結論を導き出すというようなニュアンスです。この作業は私たちには面白くないものです。しかし総合的な判断から動かぬ確信を得て宣教することが出来るのです。宣教の主導は神、福音を語るのは私たちです。確信を頂いて語りましょう。