3月31日 コリント人への手紙第一 -賜物-

その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。
Ⅰコリント1:7


講解説教 №4
Ⅰコリント1章7節

 神の恵みによって救われた私たちは、神からの祝福をしっかりと覚えて歩むことが大切です。パウロはこれまでに、「神の教会」「聖徒」「聖なるものとされた」という神の祝福に目を留めることができるように語ってきました。次の祝福として、「賜物」を挙げています。①この賜物は救いに伴う当然の結果として与えられるものだと教えています。「救われたばかりなので、まだ賜物は早い」とか、「これからちゃんと教会に集う」から賜物を頂くのでもないのです。救われているなら神から賜物を頂いているのです。ですから、「賜物などまだ早い」ではなく、「頂いている賜物が何か」を明確にすることを望んで頂きたいのです。②この賜物は必ず獲得するものです。そのことを「欠けるところがなく」という言葉で表しています。その人の信仰の状態がどんなに貧弱であろうと、賜物を得ることに失敗することはないと聖書は教えます。「自分の信仰の状態から、それは考えにくい」と考える人がいたとすると、その情報がどこから来たのか、その根拠は何かを聞きたいものです。③救われた人は、一つ以上の賜物を必ず持っています。そのことを「どんな」という言葉で表しています。信仰の成熟度に関係なく、救われた人は一つ以上の賜物を持っていると聖書は断言するのです。賜物は神からのギフトであることがⅠコリント12:11でわかります。また「御霊が~なさる」とあることから、賜物は聖霊の神のみわざであり働きです。ご自分の意志のままに判断し、決定されるのです。他の兄姉を見て、「自分もあのようになりたい」と言うのは見当違いです。賜物は他の兄姉たちの益のために使います。自分のためではありません。賜物は他の兄弟を愛することを実践するための道具です。教会の目的は、外の人々に対しては神の素晴らしさを伝え、内(教会)には、互いの賜物で奉仕し合っていくのです。