2019年4月14日 コリント人への手紙第一 -永遠の保証-

主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。
Ⅰコリント1:8


講解説教 №6
Ⅰコリント1章8節

 パウロはこの手紙の挨拶を含む冒頭で、神の恵み、救いによる祝福を覚えよと語っています。本日見て行く祝福は、救いの保証です。救いを頂いたのならば、その人は絶対にその救いを失わないという祝福です。その救いの保証は「主イエスキリストの日」に保証されます。この日は、聖書で「主の日」と呼んでいる日と区別しなければなりません。ピリピ2:16を見ると、キリストの日が褒美を頂く日であることがわかります。その内容から見ても、その日に褒美を頂くのは救われた人たち、及び教会です。彼らはキリストの素晴らしさを世に証しする責任があります。その責任を果たした結果、労苦したことが無駄ではないとキリストの日に誇ることが出来るのです。またその日は待望の日です(Ⅱテモテ4:8)。テモテの手紙において死期の近いパウロは、褒美を頂くことを待望しています。イエスにお会いすることを心に刻み準備している人は、一つも疑うことなく待つことが出来るのです。そういう人はその日その日を無駄にしません。常に罪から離れようと生活します。主がおいでになるのを心に刻んで準備をしていない人が、罪から離れようと生活すると、律法的になり喜びのない生活になってしまいます。本来主を待つことはわくわくするものです。このようなキリストの日に対して、主の日とは、神の前に犯し続けて来た罪に相応しい報いを受ける日、さばきの日です(イザヤ2:12、Ⅰテサロニケ5:2-3)。これは恐れながら待つほかないものですが(へブル10:27)、私たちがキリストの日を心待ちに出来る幸いを、まず感謝しましょう。その日に私たちは神の守り、永遠の保証、つまり救われた者は神がその救いを最後まで守ってくださいます。救いの働きを始められたお方は(ピリピ1:6)、キリストの日、すなわちキリストと直接お会いするその日まで堅持してくださるのです。