2019年6月23日 聖書講演会 -不寛容な時代にどう生きる?-

…婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。
彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。
   ヨハネ8:10,11


「愛は…礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず…」(Ⅰコリント13:4,5)
小学校の卒業式の時に、祝辞として、上記の内容をお話したことがあります。「皆さんは、体育館のトイレを使う時に、トイレ用のサンダルに履き替えます。サンダルがきちんとそろって置いてあると気持ちよく使うことが出来ますね。ところで、そのサンダルをどうしてそろえるのか?本当の理由を知っていますか?学校の決まりだからではありません。正しく良いことだからでもありません。次に使う人が気持ちよく使えるからです…」 
実はそれが礼儀に反しないことであり、他の人の利益を心がけること、つまり愛することなのです。『急いでいるから…汚いから触りたくない…」サンダルをそろえない言い訳はいくらでも出て来ます。愛がないとサンダルすらそろえることが出来ません。まして他人を平気で傷つけ、侮辱するような不寛容な言動が愛の欠如であることは明らかです。では、どうしたら他の人の利益を心がけるようになれるのでしょうか?自分の愛の欠如を心から認め、真の愛を求めることです。求める愛はキリストの愛でなければなりません。キリストはご自分をののしる敵のためにさえいのちを捨てられた寛容なお方です。実に私たちひとりひとりの罪のために死なれたのです。そのことを信じるなら、キリストの愛がその人のうちに注がれるのです。この社会から不寛容な言動が減るための様々な働きかけがありますが、キリストの愛が注がれたクリスチャンの生きた証が何よりも影響を与えるでしょう。愛を動機として、まずはサンダルをそろえるところから始めてみてはどうでしょうか。