2019年6月9日 コリント人への手紙第一 -選びによる救い-

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
Ⅰコリント1:27


講解説教 №13
Ⅰコリント1章26-31節

 救いにおいて人の知恵を重んじる人たちがコリント教会の中に起こって来たために、パウロは「召しのことを考えてごらんなさい」と信仰の軌道修正をしています。召しとは神が私たちを招く救いのことで、私たちの働きによるものではありません(Ⅱテモテ1:9)。この世の知者、権力者、身分の高い者をパウロは認めているし、多くの人から評価される人たちです。しかし、だからと言って彼らが救いに与ることにはならないと言いたいのです。私たちが救いに与るのは、「神は…選ばれた」からです。しかも神がお選びになった人は、知恵ある者ではなく愚かな者であり、権力者ではなく弱い者、身分の高い者ではなくこの世の取るに足りない者、軽んじられている者たちでした。神がそれらの人たちを選んだ目的は、世の知恵ある者、強い者をはずかしめるためです。知恵ゆえに人々から賞賛され、その知恵こそが人を救い得ると思っていたことが、実は間違いであったと気づかされることが一番の恥です。神は彼らをそのように恥ずかしめることで、神に立ち返らせるチャンスを与えておられます。神が選ばない限り決して救われないことを教えておられます。私たちも彼らと同じ存在でした。そのことを認めなければなりません。しかし、今神は私たちをお選びになったのです。いたずらに選んだのではなく、選んだからには、選ぶ責任があるのです。その責任とは十字架におけるイエスの苦しみです。神の子なら自分を救えと、世の力を見せてみろと言わんばかりに侮辱し、むちで痛めつけ、際限のない十字架の痛みを負わせたのです。私たちの代償としての十字架がなければ無責任に選べないのです。神がその人に働かれると、その人の抱く思いは一つ、「なぜ、そこまでしてくれるのですか。」 そこまでして神が選んだのは、「愛されたから」です(申命記7:7,8)。