2019年8月11日 コリント人への手紙第一 ークリスチャンとしての責任ー

与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。                                   
Ⅰコリント3:10


講解説教№20
Ⅰコリント3章10-15節


 霊的幼子が成長するためには、まず教会の霊的リーダーの存在が必要です。パウロ自身、その責任を「…土台を据えました」と表現しました。彼の行った伝道、救われた人に聖書の真理、を教えたことで土台を据えました。この働きは「賢く」しなければなりません。その賢さは自らの知恵と力ではなく、与えられた神の恵みによるものです。霊的リーダーは神の恵みにいかに依存できるかで、その責任を果たすことが可能となります。この事実は、クリスチャンのだれでも神の働きに用いられるということです。「私には出来ない」と言う必要もなければ、言ってはならないのです。また、この働きはリーダーひとりでは出来ません。他のリーダーたちが必要です。アポロはその一人です。これらの霊的リーダーたちの働きがあって、次にクリスチャンたちの責任が来るのです。「それぞれが注意しなければなりません」の部分です。神のことばを正確に語るというリーダーたちの責任に対して、そのみことばを実践して行くというのがクリスチャンたちの責任です。それはイエスキリストという土台、つまり救いがスタートラインです。その土台の上にどのような建物を建てて行くかが、実践としての責任です。一つは、金、銀、宝石にたとえられている、イエスという土台にふさわしい生活、もう一つは、木、草、わらにたとえられている土台にふさわしくない生活です。みことばを実践し(マタイ7:24,25)、福音の望みであるキリストの再臨を待ち望めるか(コロサイ1:23)が、土台にふさわしい生活です。みことばを実践しないというのが、土台にふさわしくない生活です。私たちはすでにイエスという土台を据えています。その土台の上で霊的幼子で居続けることは不自然です。成長を神に願うならば、必ず成長します。成長すなわち、みことばの実践です。