2019年10月20日 聖書講演会(第二回)ー大丈夫ー

そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」       
ルカ12:15
 

ルカ12章13-21節

 イエスのたとえ話から、ある金持ちの安心プランが語られました。金持ちである上に畑が豊作、貯蓄スペースを拡大し、自分のすべての財産をしまっておこうと。ところがある夜、彼のいのちが神から取り去られました。このたとえのポイントは「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではない」ということです。聖書が「いのち」というとき、2種類あります。神のいのち(ゾーエー)と人間的いのち(プシュケー)です。神のいのちは霊的ないのち、生きる力を与える根源的ないのちです(15節で使用)。人間的いのちは人の肉体的、精神的な意味でのいのちです(19,20節の「たましい」がそれ)。人間的いのちのために、食事をし、睡眠をとり、運動したり、楽しんだり、学んだりします。財産はこのいのちのために使うわけです。その財産が人の安心を保障すると思うので、多くの人は必要以上にこれを求めるのです。それを貪欲と言います。神のいのちは、この世の財産によって豊かにすることはできません。財産を蓄えても死んでしまえば、その財産はその人にとって何の関係もなくなります。金持ちの問題はプランそのものではなく、いのちを自分の所有と勘違いしたことです。いのちの所有は、突如として取り去った神にあるのです。自らの安心と確かさのために生活を営んでも、神のいのちを認めないなら、何の備えにもなりません。肉のいのちを取り去られて終わりです。神のいのちがあるから、人は愛するかかわりを求めて生きるのです。或いは生きる意味といった永遠を思いながら生きるのです。神のいのちを持つ人は失われるものは何一つありません。より豊かに生きるのです。神のいのちがなければ全世界を手に入れても安心は得られません(マタイ16:26)。神のいのちはイエスキリストを信じることで与えられます(ヨハネ3:16)。