2019年10月27日 ダビデの確信

ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」
                   
Ⅰサムエル17:37
 

サムエル記第一17章31-40節

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
(マタイ6:12)「主の祈り」の5番目の祈りです。この祈りで考えなければならないことは、前半と後半の関係です。主に罪を赦していただくことと、誰かの罪を赦すことがどういう関係にあるのかということです。このみことばを読むとき、或いは実際にこのことばを引用して祈る時に、気になるのは「赦しました」と過去形で言い切っている所です。その部分は正直なところ、少し躊躇します。文語訳だと、「我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」となり、誰かの罪を赦すことが、自分の罪が赦される条件のように聞こえます。イエスのたとえ話の中にも「…私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」 また、「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天の私の父も、あなたがたに、このようになさるのです」(マタイ18:33,35)とやはり、赦すことが赦されるための条件のように聞こえます。もしそうだとすると、信じる信仰のみの、神の無条件の赦しの教えに反します。この祈りの真意は、キリストの赦しと人を赦すことは必ず調和しているということです。キリストの赦しを受け入れる人は、必ず人を赦すことが出来るのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです」(ルカ23:34)との十字架上の至高の赦しをもって、私たちの罪は完全に赦されているのです。それを信じて受け入れている者に、必ず他者への赦しが伴うのです。人を赦すとき、特に信仰を共にする兄弟を赦すときに苦しむことがあるかもしれません。苦しみながらもキリストに向かっているならば、その人は十字架の赦しを本心から知る尊い訓練の時となります。