2019年10月6日 コリント人への手紙第一 -不正をも甘んじて受ける-

そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。
Ⅰコリント6:7 


講解説教№27
Ⅰコリント6章1-11節


 6章に記されている、恐らく教会員同士の金銭が絡んだ問題を通して、教会にはどのような責任が与えられているのかということを学ぶことが出来ます。第一に教会は権威を用いて治めなければなりません。パウロが問題視したのは金銭問題を教会の外にある裁判に任せたことです。コリントの兄姉たちが問題にしたのは、彼らの自己中心的な罪から来る不正(不利益)であり、だまし取られた被害でした。しかし問題にすべきは罪そのものです。第二に教会は、教会の中で正しくさばくべきです。教会にはさばく権威が与えられています。だから不品行の罪を対処する時も「取り除きなさい」(7)とさばきを行う権威があるのを確認することができるのです。
第三に教会はさばきに必要な知恵が与えられています。パウロは「兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか」と言いました。いないことを責めているのではなく、いるはずだと責めているのです。教会にはひとりひとりに神が賜物を必ず与えておられるからです。教会は自分の好みや都合で治めてはなりません。正しく治めるために、御言葉の知恵がどうしても必要です。
このことを教えた上でパウロは、一段と深く踏み込んだところを教会の人たちに語ります。信仰者同士が訴え合うこと自体が敗北であることを突き付けたあとに、むしろ不正をも甘んじて受けないのですかと責めたのです。不正をあえて受け入れると不正をした相手はどうなるのでしょう?恥を見て真っ赤になるのです。(ロマ12:19-21)過ちに気づき、教会が何であるかを恐れをもって知るのです。ですから善をもって悪に打ち勝つのです。私たちは教会に対して無知であってはなりません。教会を軽んじてはなりません。