2019年12月15日 コリント人への手紙第一 -主に喜ばれるために-

ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。 
Ⅰコリント7:35


講解説教№34
Ⅰコリント7章32-40

 結婚を含めた世の有様に心を奪われて、世の終わりを見つめることができなくなるため、独身でいる方が良い、というのが前回までの教えです。更にパウロは、「思い煩わないこと」を気にかけます。独身者は主に喜ばれるかと心を使いますが、既婚者はどうすれば配偶者に喜ばれるかと心を使います。どちらもなすべき大切なことです。だからこそ心が二つに分かれて思い煩うのです。だから、パウロの意見としては独身を勧めているのです。ただ、結論としては「あなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるため」(35)となります。「秩序(品位)ある生活」とは、神が求めている信仰者の「美しい姿」のことです。それは、思い煩いがない姿のことを言っています。余念なく、まわりのものに何ら妨げられることがない姿です。問題ばかりを抱えているコリント教会に、パウロは信仰の質を求めています。それは終末との深いかかわりにおいて、信仰者の必須かもしれません。ここで求められている「奉仕」はいわゆる熱心に奉仕作業に打ち込むことではありません。ここで使われている「奉仕する」という言葉は、「美しく傍らに座る」という二語で作られている重要な言葉です。つまり、主の傍らに座り、みことばを一心に聞き入る姿を言うのです。ルカ10:39-41では、マリヤがその姿を保ち、マルタが一生懸命の立ち振舞いでしたが、イエスの目から見て、それは思い煩いでしかなかったのです。マルコ3:13、14にも、十二弟子がイエスの傍らにいて、みことばを聞く姿が描かれています。現在の私たちの奉仕する姿を、自ら確認してみましょう。主の傍らでみことばを求める姿はどこかへ行き、熱心ではあるが、いつも心が分かれてしまう状態か、主のみそばにいて、御言葉のある生活か。後者は宣教に従事できるようになります。