2020年2月2日  宣教月間 -収穫のための働き手-

そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
マタイ9:37、38


マタイの福音書9章37-38節

 イエスは、人々を天の御国に招き入れるという収穫を切望されています。なぜなら、収穫が多いと見なされておられるからです。ヨハネ4章35節でも、御国の収穫期は「(いつでも)刈り入れるばかり」と言っておられます。日本宣教を見ると、教会の減少、クリスチャンの減少が数字に表れています。原因を考えるよりもまず、宣教の畑をイエスがご覧になっているように見ていないことに着目しなければなりません。人々をあわれむ心で見ると、いつでも豊かな収穫期なのです。ガリラヤを巡り歩かれたイエスは、多くの弱った人たちとかかわりました。マルコ福音書を見ると、一日中働かれたイエスのもとに、夕方になっても町中の人たちが集まって来たことが記されています。その一人一人をあわれみ、お癒やしになりました。翌朝早くに祈られたイエスは「近くの別の村里」へ向かわれました。「そこにも福音を知らせ」るためです(マルコ1:32-38)。深いあわれみを抱くなら、休む間がないほどに、いつでもどこでも収穫なのです。イエスは、その収穫に対して、働き手が少ないと言われました。イエスは、神から遣わされる働き手を求めています。宣教の主導権は「働き手を送ってくださる」神にあります。また、この収穫は、私たちの収穫ではなく、「ご自分(神)の収穫」です。そしてそれは、あわれみを必要としている人としての収穫です。もし「私たちの収穫」とすると、教会にクリスチャンが増えるためだけの収穫となってしまいます。そうなると収穫は少ないとしか見えません。イエスが求める働き手は、あわれみの心を持った働き手です。弱り果てて倒れている人たちを御国に導き入れるという神のご計画、目的は一つです。しかし働きは多様です。ですから、それぞれに神から賜物を頂いているのです。その賜物を生かすも殺すも、あわれみの心があるかどうかで決まります。