2020年10月18日 働きのための広い門

というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大ぜいいるからです。 Ⅰコリント16:9 コリント人への手紙第一講解説教№67 Ⅰコリント16章5-9節 エペソに滞在しているパウロは(8)、コリント教会へ行く計画を持っています。手紙で信仰生活について指示を出しましたが、直接会って交わらないと心配なのです。ですから「顔を見」る」立ち寄りではなく、「しばらく滞在」することを希望しています。コリント教会へ行くための計画はかなり具体的なのですが、みな不確定です。「つもり、たぶん、かもしれません、(こう)したい…」という具合です。これまでにも行っているルートですから、パウロの立てる計画が下手というわけではないでしょう。その中で確定的なことが一つあります。「…主がお許しになるなら」(7)と言ったように、パウロが神の命令の下にあるということだけは確定しています。かつてユダヤ教のエリートの道を行き、キリストを信仰する者を撲滅させる計画と実行者がパウロでした。ところが彼が悪と偽りと見なしていたイエスと直接お会いしたことで、彼の計画が不確定極まりないことがわかり、イエスを信じたことから、ただちにイエスがまことの神であることを宣べ伝えました。パウロの全生涯がイエスの権威の下にあることを認めたのです。そのパウロが今、主のお許しのもとに行うことは、「五旬節まではエペソに滞在する」ことです。一刻も早くコリントへ行き、心配を取り除きたいところですが、主の許しがあるので、「働きのための広い門」が開けられていたのです。そこに「反対者も大ぜいいる」のなら、躊躇するところですが、主に従いました。「堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい」とコリントの兄姉に勧めたのはパウロですが、自分自身がそれを実行しています。私たちは状況に左右されがちです。それが自分の立てる計画でしょう。しかし、進べき門を開いてくださるのは主です。そうであるなら、どんな反対者も、どんな障害も、主が用意された道を曲げることは出来ないのです。主がそれをお許しにならないからです。だからパウロは反対者が大ぜいいても滞在するし、そここそが安全なのです。「主がお許しになるなら」という主の主権を私たちも認めようではありませんか。その先にある困難を恐れ、自分のプランに変更したい思いに駆られるかもしれません。しかし、門を開かれたのは、あなたではなく神です。その先の困難も自分で克服して進んで行くものではありません。門を開かれた神の責任で克服されるのです。