2020年10月25日 主の業における教会の交わり 

彼らは、私の心をも、あなたがたの心をも安心させてくれました。このような人々の労をねぎらいなさい。 Ⅰコリント16:18 コリント人への手紙第一講解説教№68 Ⅰコリント16章10-18節 パウロはコリントの兄姉たちに、「テモテ」がそちらに行ったら、しっかり受け入れ、軽んじることがないようにと伝えました。テモテは若く(Ⅱテモテ4:12)、気が小さい(Ⅱテモテ1:4、7、2:1)ところがあります。しかしそれが理由ではなく、伝道者として「主のみわざに励んでいるから」(10)軽んじてはならないのです。これは伝道者の処遇の問題ではなく、教会がみことばを尊重し、従っていくという問題です。「アポロ」については、コリントからパウロに何らかの質問があったのでしょう。コリント教会では、アポロ派、パウロ派という対立する派閥がありました(1:12)。しかし、ここで「兄弟アポロ」とパウロは呼んでいます。自分たちのことばかり主張し合い、対立派閥を作っていた人たちとは違い、パウロはアポロを同労者として揺るぎない信頼を置いていたのです。 パウロの伝道初期に救われた「ステパナの家族」のことについては、「聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました」と言っています。原文は「聖なる者たちへの奉仕に自分を任命した」となります。誰かに勧められたわけでもなく、問題が山積している教会に自ら進んで仕えたいと自分から奉仕に取り組んだということです。パウロは「このような人たちに…服従しなさい」と勧めます。その部分も原文を見ると、「(そのような人たち)の下に自分を任命しなさい」となります。ステパナの家族の奉仕と、その奉仕者に従うことを、パウロは同じ事柄ととらえているのです。一方に立派な奉仕者がいて、他の人たちは奉仕者を尊敬して、服従するということではないのです。そこには自ら進んで奉仕をする者と、自ら進んで奉仕者を尊敬し、従う者と、いわゆる互いに仕え合う教会の姿があるのです。その源流はイエスキリストです(Ⅰペテロ2:23、24)。キリストこそ、自らのいのちを進んで、私たちの罪の身代わりとしてささげてくださいました。「ステパナ、ポルトナト、アカイコ」は、エペソにいるパウロを尋ねた人たちです。彼らについてパウロは、「彼らは、私の心をも、あなたがたの心をも安心させてくれました」と言っています。信仰者の交わりは、「安心させる人と安心する人」というふうに、一方から一方へ、ではありません。「自分はいつも慰められる側で、誰かを慰めることはできない」とはならないのです。実はどちらの人も、神から安心させられるのです。教会の交わりにおいては、神から安心させられ、或いは慰められるのです。教会の交わりは常に双方向です。