2020年10月4日 死者の復活について(8)~死は勝利にのまれた~

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 Ⅰコリント15:51 コリント人への手紙第一講解説教№65 Ⅰコリント15章50-58節 救いに与かった人は神の国を相続します(御国を受け継ぐ)。神の養子となった私たちが受け継ぐものは神ご自身というはかり知ることの出来ない財産です。しかし今の血肉のからだで受け継ぐことは全くをもってふさわしくないので、受け継ぐことはできません。聖書が教える神の奥義を信じなければならないのです。神の隠された奥義とは「私たちはみな、眠ることになるのではなく、変えられる」ことです。変えられるのは「終わりのラッパ」が鳴り響くときです。終末において勝利の時を示す響であって、すべての神の民を招集する響きでもあります。キリストと私たち自身の復活を見つめることは、信仰において欠かすことの出来ない最重要事項です。ただ重要だからと言って、何か努力できる事柄ではありません。復活は努力目標ではなく、隠された真理としての奥義です。私たちが考えるはるか前から約束されている神の堅いご意志です。私たちがそのご意志を知るには、信じることのほかに手段はありません。これは恵みです。復活という神のご意志に目が開かれるなら、大いなる希望に支えられます。それは「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならない」という復活のからだに変えられることが必然であるということです。パウロは「死は勝利にのまれた」「…死よ。おまえのとげはどこにあるのか」という旧約聖書を引用して復活の確実さを裏付けます。「死のとげは罪」と言っているように、人を致命的な死に至らせるのは罪であると聖書は言います。死のとげが刺さっている限り(比喩)、人生における悩みや苦しみから逃れることは出来ず、それ以上に死の恐怖から逃れられないのです。それは神の律法がその人を罪に定め、死刑宣告のもとに置かれるため故の恐怖です。しかし、もしキリストによって自分の罪が赦されたことを知るならば、死は恐怖ではありません。その人の罪をキリストがその身に負われて罰せられたので、その贖いを信じるなら無条件で赦されます。その人にはもはや死のとげは抜かれているのです。その人は安心して死と向かい合うことができ、救いの完成である復活を待つのみです。この希望に生きる時、今の生活が変わります。将来への確信は、今の生活にも確信を与えます。主のわざに励むことが出来るのです。その人の置かれたところで、救いの完成に向かって進んで行くので、多くの労苦も「主にあって」無駄になりません。労苦する忍耐は、主の再臨の時に変えられる「主イエスキリストへの望みの忍耐」(Ⅰテサロニケ1:3)です。