2020年11月15日 私が誇るべきこと

私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。  Ⅱコリント1:12 コリント人への手紙第二講解説教№2 Ⅱコリント1章12-14節 第二の手紙は、悔い改めたコリントの兄姉と信頼を回復させるために書かれました。パウロの使徒性を疑っていることは誤解なのですが、一度誤解が生じると、後々引きずります。パウロが前もって伝えていたコリントへ行く計画が変更となったため、兄姉たちは約束を破ったと非難しました。パウロは、その対処、対人関係をより良く保つ秘訣を示します。第一に言行一致の誠実さ、しかも神の誠実さが必要です。その誠実さを備えるために重要なのが「良心」です。何が良いことで、何が悪いことかを敏感にキャッチする心です。聖書はそれを教えてくれますが、聖書がなくても神は人の心にそのような機能を備えてくださったのです。パウロは「…神の前にも人の前にも責められるところのない良心を保つように、と最善を尽くしています」(使徒24:16)と言いました。彼が懸命になれるのは、最終的に「神の前」に立つことを知っていたからです。信仰者は「キリストのさばきの座」」に立ち、地上で生きて来たすべてのことを評価されます。何一つ隠すことは出来ません。それ故に、誠実に生きることが出来るのです。良心は私たちを責めます。アダムが善悪の知識の木の実を食べたあと、神から隠れました(創世記3:8)良心が機能したからです。「あなたはどこにいるのか」(3:9)と、心配と愛の呼びかけに対して、「私は裸なので…隠れました」(3:11)とうそを言いました。取って食べてはいけないと知っていて食べたから隠れたのです。良心それ自体は、間違った行為をとどめる力はありません。しかし、間違ったことをしたとき(しようとしたとき)、良心は私を責め始めるのです。良いことと、悪いことを教えようとする良心は、クリスチャンの場合、その良心が神のことばに立ち返らせる役目を果たします。私たちは最終的に神と、そのみことばに従うのです。神が人のうちに良心を造られたのは、罪のうちにある人の心というものが実に複雑であることを見越してのことです。その複雑な心は、本来の動機ではなく、隠れた悪い動機を持たせます。そうなると、いくら誠実に歩みようがありません。誠実に振る舞うことと、良心に従って歩むことは密接な関係にあります。私たちが良心に従うということは、誠実に振る舞うための品性を形作る重要なカギとなります。誠実に歩むことは、「神から来る(神の)誠実さ」と「神の恵み」によって行動することを忘れないでください。私自身の知恵と力ではありません。